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g選

アストラル建築試論



緒 言


 目に見えるものしか信じられない者に、アストラル建築の重要性は理解できない。どころか、アストラル建築などというものを仮定することすら困難だろう。それらはしかし、こころのキレイな人、正直者には必ず見える。裸の王様の豪華な衣装を馬鹿にする者は、自らの想像力を馬鹿にしていることに気づくべきである。
 そんなこんなで、今・此処に、実際にその目で見て、その手で触れて、確かめることのできるモノとしては存在していない、ただしイメージ中には確かに存在している建物群を<アストラル建築>と総称してみる。これから家を建てようとする施主とその家族、初めて訪問する○○クンちの様子を道すがら何となく思い描いている小学生、期待に胸を膨らませながら異国の遺跡見学に向かうOL、コンペに負けた建築家、第三者の目にはただの書斎としか映らない“テンプル”で作業中の自称魔術師・・・。それは、みんなのイメージ中に普通に存在している。あるいは、夢の中に繰り返し出てくる不思議な建物をも範疇に含めるなら、私たちは意識するしないに関係なく、のべつ様々なアストラル建築を建てたり、ひょっこり出くわしたり、迷い込んで途方に暮れたりといったかたちで関わりを持ち続けている。なのにこれらは、現実の建築が語られるようには語られてこなかった。

 現実の建築における古典様式、例えば、狭い間隔でずらりと立ち並ぶ列柱を特徴とするギリシア様式、アーチ門やドーム天井を特徴とするローマ様式は、それぞれ構造上の必然から生まれたものだった。では、それらと異なる構法で建てられた近代ビルのファサードが、何故に古典様式を踏襲する必要があるのか? もちろん(とりあえず前例を踏襲して世間を安心させること以外に)“必要”なんてない! ・・・こうした批判的観察を経て生まれた<モダン建築>が、結果的に、著しく乖離してしまっていた構造と様式を再統合することとなったのは当然の帰結である。20世紀建築の3大巨匠〜ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ〜は、当然、このあたりを経た上で新しいスタイルを生み出した人たちである。

 早い話、人々は、アストラル建築について批判的に考察する機会を持ち損なってきたとは言えまいか? 構造上の必然性という制約からあらかじめ自由であるという事情を考慮した場合、アストラル建築の領域でモダン革命が起こり得なかったのは、まあ当然と言えば当然だろう。また、アストラル建築家のイメージ中の混乱についても、実際にはそれがどれほど酷く深刻な状態であったにしても、部屋の中が多少散らかり気味であるといった些細な事象程度にすら問題視されることもなく、やり過ごされてしまった可能性が高い。

 以上を踏まえて、主に“魔術実践者の作業場”としてのアストラル建築に焦点を絞って何か書いてみようと思いついた。「制約がないから無理にでも設けましょう」というのではなく、淀んだ水の中に小石をひとつ投げ込む程度の試みである。これをきっかけに何かが僅かでも動けばそれでいいと思う。尚、上で言及したイメージ中の<混乱>とは、純粋に方法論上の問題。創造の源泉としての<混沌>とは、まったく似てなくて非なるものである点に注意されたい。


(2004.12.12)





〜中身もそのうちUP〜





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