自身の魔術趣味を慎重に隠す、状況に応じてそこそこオープンにする、このあたりはそれこそ各人の自由意志にゆだねられている。比較的オープンな部類に入るであろう自分の場合、そのへんを口に出した際の相手の反応は、
「何で?」
というのが大半。ニヤニヤしながら「アブナイ」という言葉を返してくれる人もいるが、文字どおりの危険を指すことは100%なく、むしろ相手(つまり私)に対するサービスのニュアンスが強い。さらに言えば、そこには「ヤバイ」以上に「イタイ」のニュアンスが多く含まれている上、ここ2〜3年「イタイ」の比重はますます高まりつつあるように感じられる。そうか、みんなイタイ僕に優しくしてくれてありがとね。残念ながら私は、これをもって魔術の死、すなわちそれが毒にも薬にもならない特殊な趣味としか見なされていない現実を知った。数多ある趣味の蛸壺のひとつとしてであれ何であれ、ともかく現代日本のオタク文化の土壌に受け入れられたんだから良かったじゃないのという見方も、あることはあるだろう(1)。確かに、受け入れられたのがMAGICKの死骸だった点を除けば、多少は喜ぶべきことなのかも知れない。
魔術(ここではMAGICまたはMAGICKの訳語)ないしは西洋魔術がイタイものと見なされるのは、何も今の日本に限った話ではない。黄金の夜明け団が生まれ消えていった19世紀のイギリスの場合にしても、大多数の人たちにとって似たようなものだったろう。但し、いかがわしさや稚拙さ等のマイナス面と同時に、少なくとも何らかの不穏な気配や可能性、人々の意識を変え、世界を変えるに充分な原動力とでも言うべき曰く名状しがたいポテンシャルを感じさせるだけの勢いを保っていたと信じたい。これこそが、現在の日本の西洋魔術に決定的に欠けているものだ。
そもそも日本における西洋魔術は、文学としてではなく、実践として輸入/紹介された段階で、最初から戦略的に冷凍&仮死状態だったのではないか。そしてそれは、いかがわしいと見なされざるを得ないものを輸入するに当たって、必要な措置だった。アメリカ産牛肉の安全性を声高にアナウンスするがごとく。いずれにせよ、パーティの席でつまらない揉め事を避ける為にそうしたように、魔術と政治・宗教・セックスとの関係性に徹底してモザイク処理が施されたことは想像に難くない。だが、それを必要な応急処置として捉えた者は控えめに言っても少数派だったらしく、結果として、日本の西洋魔術界隈に特有のヴィクトリア朝的道徳観が、時代を超越して支配的となるに至った(2)。良くも悪くも、歴史上常にサブカルチャーとしてしか存在し得なかった魔術にしては、まったく奇妙なことである。
だからこそ私は、ここ2〜3年、2〜3回ぎくりとさせられた
「何で今頃よりにもよって魔術?」
に対してだけは、真面目に答えを考えてみる価値があると思っている。その場を盛り上げるネタとしての気の利いたコメントではなく、同居人に対する説得のための語りでもなく、自分に対して「何で<魔術>なのか」という質問を改めて投げてみた場合、何が返って来るのか。
私の場合は、おおまかに言ってふたつある。
第一の答えは、どろどろと得体の知れないイメージで語られがちな、それゆえにインチキの温床となりがちな内面の問題を、徹底的に表層意匠(サーフェスデザイン)として扱うこと。そうすることにより、「壺にはまる」のとは反対に、すべての関係性に対して開かれていくことが可能に思えるから(3)というもの。
次に挙げられるのは、スピリチュアルのユニバーサルデザイン。断っておくが、世のため人のためではなく、まず自分のためのユニバーサルデザインだ。今日の日本においては、生まれ育った街から一歩も出ることなく死んでいくなどよほどの事情がない限りあり得ない。生活拠点だって変わるし、観光や仕事その他の事情で、海外を含む地域間の移動も盛んだ。このような状況下で、土地の信仰や神格と、その土地に暮らす人との霊性的関係はどのょうなことになっているのか。巨石や大木などのご神体を飛行機や新幹線に持ち込むことは許されない今、私は、エジプト神話とヘブル語アルファベットを平気でごった混ぜにしてしまうMAGICKを、即応用可能なアイデアと技法の宝庫と見ているのである(4)。